筑波大学附属視覚特別支援学校のWEB

筑波大学附属盲学校における
情報処理の研究・開発の経緯

 現代は、情報化社会といわれ、職場や学校はもとより、日常生活のあらゆる面にコンピュータが介在し、もはやコンピュータ(パソコン)を避けては教育も論ずることはできなくなった。しかし、この分野は、歴史も極めて浅く、様々な問題を含んでおり、議論の分かれるところであるが、コンピュータはそんなこととはおかまいなしに日進月歩で激しく進化し、益々生活に深く入り込んでいる。そして、95年には「WINSOWS95」が発売され、パソコン環境が一変しようとしている。

 筑波大学附属盲学校におけるパソコン利用の流れを辿ると4系統があったと言える。

 1番目は長谷川元教諭の日本語点字にはない漢字の点字符号(「六点漢字」)の研究と点字ワープロの指導である。

 1972年7月、「六点漢字第1案」に着手し、個人で紙テープ点字データタイプライター第1号試作機を購入し、8月に「六点漢字第1案」を完成させた。

 1973年1月、「六点漢字第2案」で、新聞印刷用データから自動点訳実験を行い、また、国立国語研究所田中章夫氏の協力により、中学校教科書の漢字仮名まじり文の一部を仮名点字に点訳する実験も行った。

 1994年12月には、国立国会図書館と東京JPの電算写植システムを借りて点字から墨字を書く実験を行い、現在の点字ワープロの原点となった。

 1975年4月、日本ME学会で東京大学斎藤正男教授らと「点字による日本語入力と六点漢字」を共同で発表した。また、この年に点字使用者が普通文字(墨字)を書く手段として、「六点漢字」の指導が始まった。生徒の希望者に、データタイプライターで点字を書かせ、国会図書館で墨字に変換するするものだった。12月、日本点字図書館を中心とする点字カセットシステム研究会で紙に書かれた点字を光学的に読み取る実験に成功した。この最初の実験機を用い、パーキンスタイプで書いた点字を3行読み取り、その紙データテープを国会図書館のコンピュータを使い、墨字印刷を行った。そして、これが1980年のブレイルマスターの原型となる。

 1976年、電子技術総合研究所矢田光治氏、都立工業技術センター平塚尚一氏らと共同で電算写植印刷で出版される図書のデータから六点漢字による自動点訳開始、「坊っちゃん」(夏目漱石)、「若きヴェルテルの悩み」(ゲーテ)、「脳のはたらき」(千葉康則)などを点訳した。この時、平塚氏の試作した点字プリンター第1号機が、後にESA点字プリンターシリーズとなる。

 1977年、日本コンピューターセンターにおいても、点字による日本語入力が可能となる。また、東芝総合研究所の協力により日本語OCRのデータから自動点訳実験を行い、「特許公報」を印刷物から自動点訳した。

 1978年金沢工業大学(水野舜講師、現、教授)において、自動点訳開始された。雑誌「コンピュートピア」(1978.9)に、コンピューターで原稿を書く。同誌に原稿が写真で掲載、最初の自動代筆の写真も掲載された。

 長谷川元教諭の研究とは関係ないが、1989年東芝が日本語ワープロ第1号機、JW‐10を発表し、価格は640万円、おおよそアップライト型ピアノの大きさである。

 1980年、自動亜鉛点字製版機試作機第1号機で、「当用漢字音訓表」、「脳のはたらき」(千葉康則・日本放送出版協会発行)製版印刷した。

 1981年3月、附属盲学校にブレイルマスターが入った。文部省は8年間で全国盲学校に配置する計画であった。この年、「新明解国語辞典」(三省堂)を自動点訳し、後に、AOKに登載された。12月、バナファコム佐藤亮氏の協力をえて、漢字をの使えるパソコンFM‐8を用い、パソコンによる日本語ワープロ第1号機試作に成功した。

 1982年1月より、生徒にFM‐8の点字ワープロで指導を始めた。5月、関視研大会(文京盲)点字部会、および、理療部会で点字ワープロについて発表し、8月、全日盲研大会(岐阜盲)点字部会でも発表した。

 1983年2月、東京理科大学村井和雅氏の協力を得て、NEC「PC‐8801」のフルキーボード上に、点字キーボードをソフトで作り、点字ワープロに応用し、後に、この点字キー方式が点訳ソフトなどにも普及することとなった。

 1994年3月、高知システム開発が六点漢字ワープロを基礎に音声点字ワープロをPC8801で開発した。7月、最初の点字ワープロコンテストを六点漢字協会主催で開催し、約20人の参加があり、新聞でも紹介された。

 1985年6月、AOKワープロが初めて仮名漢字変換つき六点漢字日本語ワープロを開発した。11月、日本盲人職能開発センターが第1回ワープロコンテストを開催した。

 1986年11月、PC9801上で動くAOK日本語ワープロ誕生し、1987年11月にはAOK漢字詳細読みを登載した。12月、約2500台のAOK日本語ワープロが、全国の盲学校、盲人施設、個人に普及している。自動代筆実験から13年、パソコンワープロ誕生から6年の偉業である。長谷川元教諭はその後も研究を続け、JIS第3水準の漢字符号を完成させ、コンピュータで使用できる漢字のすべてを6点漢字で使用できるようにした。


 2番目は、点字をコンピュータで処理しようとした流れである。点字複製装置「ブレールマスター」が1981年に導入されたが、それは片面書きされた点字を読み取り装置にいれると光学的に解読され、磁気的に保存され、点字プリンタから打ち出される。もちろんキー入力も可能であり、操作が比較的簡単であったのでどの教員も重宝し、従来の亜鉛板製版に変わって最大限に利用された。

 しかし、高額である上、点字用紙が丸まるなどの欠点もり、遠藤教諭などは関係機関と協力してパソコンによる点字製版のシステム作りの研究に乗り出し(教育方法改善研究)、本校で開発した訳ではないが、「ESA点字プリンタ」として実を結び、多くの盲関係機関で利用されている。従来、盲人に対するボランティア活動の重要な分野として、点訳奉仕があったが、高村教諭による点訳ソフト「こうたくん」の開発以後、これに類する点訳ソフトが、続々と発表されるにいたった。

 今ではパソコン点訳の時代と言っても過言ではない。点訳ソフト利用以前は、作られた点字資料はその一部だけに限られた。ところが、点訳ソフトにより、必要部数を点字プリンタで自動的に印刷できるようになった。このことは点訳奉仕活動だけでなく、100年来続いてきた亜鉛版印刷の様相をも変え、亜鉛版印刷は、点字出版所の大部数印刷に限られるようにしてしまった。

 また、本校で開発した機器はないが、長谷川元教諭や遠藤教諭、高村教諭などが外部に協力する形で種々の開発に係わった。「電子黒板」の開発、NECのCD-ROMユニットの音声化やペーパーレスブレイル「ブレイルノート」はモニターとして意見を述べ、画面拡大補助具「PC-WIDE」では実験に協力してきた。その結果、どこの盲学校でもパソコンによる点字作製や視覚障害者に対する情報処理教育が盛んになってきた。が行われている。


 3番目の流れはコンピュータ本来の使用と数学での指導である。本校は1977年「PC8801」パソコンを1台購入した。興味を持つ教員はBASICによる独自のプログラムを作成し、データ処理に利用を始めた。数学ではポケット電卓やプログラム電卓でプログラムの原理を指導していたが、パソコンの紹介をかねながらBASICによる簡単なプログラムの指導を始めた。しかし、学校予算の関係で授業用のパソコンを購入することができず、紹介程度に終わった感がある。

 4番目は、コミュニケーション指導の一環として英文タイプや邦文タイプの指導を行っていた養護・訓練の流れである。点字使用者に対しては長谷川元教諭に依頼して、点字ワープロを指導していたが、普通文字使用者の場合は手書きや簡易邦文タイプで文書が作成できていたので、ワープロの指導はパーソナルワープロが普及し、邦文タイプに代わってワープロ文書が主流になり始めた1985年からである。しかし、養護・訓練の予算の大半をパソコン関係に注ぎ、パソコンや視覚障害者のための補助機器を購入し続けたので、指導用パソコンや補助機器のほとんどを所有することになり、本校における情報処理教育の中心になった。

 学校としては情報処理教育の意義と必要性を考慮し、パソコン委員会を設置し、概算要求をあげ続けた結果、1991年度に情報処理教育の費用として学校に200万円付き、これを機会にパソコン教室を設け、養護・訓練の所有していたパソコンも供出して、本校の情報処理に関する計画や指導はパソコン委員会に一本化された。

 そのほか、研究の分野でも長谷川は各種の学会や研究会でその成果を発表してきたし、遠藤教諭は「点字サイエンス」に視覚障害者のパソコン利用について連載している。他の教員も公開授業や種々の研究会で視覚障害者のパソコン利用について発表している。また、○○年から3年間2度目の「教育改善研究」で「盲学校における情報処理教育」を取り上げ、視覚障害者のパソコン利用について研修した。そういう意味で、本校は盲学校及び視覚障害者の情報処理の分野においてある程度の役割りはを果していると言えるのではないだろうか。

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2007/04/09