筑波大学附属視覚特別支援学校のWEB

同窓会より 東京盲学校 校歌 寮歌 応援歌の紹介

音源について

 校歌・寮歌・応援歌は、2001年(平成13年)3月3日に同窓生有志が集い、懐かしい母校の思い出をかみしめながら歌い上げたものです。同年8月に井村淳一郎が、収録した音源を編集してCD化し、それを筑波大学附属視覚特別支援学校のホームページでも聞けるようにしたものです。
 中心的に声をかけたのが、あはき自営の乙幡和夫で、都立文教盲学校教諭でした渡辺勇喜三や田中禎一が賛同して、同窓生に呼びかけました。田中禎一は理療科の教員でしたが、ピアノやアコーディオンの名手としても知られており、以前から母校の校歌・寮歌・応援歌の採譜を手がけられていたようです。当時附属盲学校に在職していた木村愛子が音楽室の予約などの調整をされ、埼玉県立盲学校の教員だった井村淳一郎が録音を担当することになりました。呼びかけ人の乙幡和夫は多くの同窓生に集まってもらおうと広く声をかけられ、同窓生の病院勤務者の集まりだった「雑司ヶ谷病院理学療法研究会(雑病理研)」の下山順脩や露木秀久にも協力を依頼して、当日を迎えることになりました。
 雑病理研に声をかけたのは、戦後から1990年代頃までは、首都圏地域において理療科(現、鍼灸・主義療法科)の卒業生の多くが病院マッサージ師として就職していたからです。
 なお、文中人名については、ご存命の方々もおられますが、多くの方々が鬼籍に入られておられますので、すべて敬称を省かせていただきます。

CDの内容

【タイトルと録音時間、及び音源】
1.筑波大学附属盲学校校歌3分26秒
 
2.東京盲唖学校校歌 「うれしき御代」2分36秒
 
3.東京盲学校寮歌「雑司が丘の歌」2分50秒
 
4.第二寮歌「若い命」4分42秒
 
5.中等部歌「月の梢」4分55秒
 
6.中学部応援歌1分47秒
 
7.高等部応援歌2分21秒
 
8.応援歌「護国の健児」(応援風景付き)5分16秒
 
 総演奏時間 27分53秒

 録音日   2001(平成13)年3月3日
 録音編集  2001(平成13)年8月
 斉唱    卒業生 有志
 ピアノ伴奏 田中 禎一(たなか ていいち)
 ナレーター 渡辺 勇喜三(わたなべ ゆきぞう)
 技術    井村 淳一郎(いむら じゅんいちろう)
 組織運営  乙幡 一男(おとはた かずお)
 装丁    下山順脩(しもやま よしのぶ)
 規格・制作 露木秀久(つゆき ひでひさ)

筑波大学附属盲学校 校歌

尾上八郎 作詞
岡野貞一 作曲

1.広き世界の海山も
 なずれば指に明{あきら}けし
 深き心を解く文字も
 探れば胸に移りきぬ
2.かかる術{すべ}無き時だにも
 教えとなれるかずの書{ふみ}
 著{あらわ}し集め今もなお
 仰がるる人なからずや
3.学びの道は遠かれど
 良き師の君の導きに
 その果て果てを極めまし
 開{ひら}けゆく世に身はあいぬ

 1910(明治43)年11月18日制定 旧官立東京盲学校校歌
 ※注釈1

旧東京盲唖学校校歌 「うれしき御世」

中村秋香  作詞
小山作之助 作曲

1.うれしき御世や今日の御世
 昔の世には捨てられし
 わがともがらも人並みに
 かぞまえられてぞ世にはたつ
2.尊き御世や今日の御世
 聞かぬにも聞き見ぬに見て
 わがともがらも人並みに
 学びの庭をぞたちならす
3.人並々の道踏みて
 朝な夕なに立ちならす
 学びの庭のいや広き
 世の恵みこそうれしけれ

 1889(明治22)年制定
 ※注釈2

東京盲学校寮歌 「雑司ヶ丘の歌」

山本常夫 作詞
志賀静男 作曲

1.蒼穹 {そうきゅう} 仰ぎて窮みなき
 高遠の理想目指しつつ
 常磐木 {ときわぎ} の森この丘に
 ああ、伝統 堅 {かた}し操 {みさお}
2.白雲{はくうん} 行けば故郷 {ふるさと} の
 面影胸に帰れども
 理想を樹 {た} つるこの丘に
 ああ、伝統 振るえ勇気
3.楽壇すでに幾秋の
 不振を興 {おこ} す時は今
 新人多し我が丘に
 ああ、伝統 常し遊{すさ}び
4.千古の森に比{たぐ}うべき
 東洋医道の道拓{ひら}く
 斧振りかざす我が丘に
 ああ、伝統 鍛えよ心
5.富嶽{ふがく}に消えぬ千年の
 白雪{はくせつ}常に思いつつ
 明朗闊達{かったつ}、この丘に
 ああ、伝統 敏{さと}しの二魂

 1935(昭和10)年10月 東京盲学校制定
 ※注釈3

第2寮歌 「若き命」

佐藤正彦  作詞
五十嵐光雄 作曲

1.朝 {あした} 夕べの 語 {かた} らいに
 己 {おのれ} を磨き 人を容 {い} れ
 我と自ら 納めつつ
 独立の人育てんと
 理想をかざす若人が
 交わす腕 {かいな}に ふつふつと
 たぎる血潮は 通うなり
2.足下に大地 踏んまえて
 心は高く 空に馳せ
 力総身 {そうみ}に 益れつつ
 疲れを知らぬ若人は
 駿馬 {しゆんめ} の姿さながらに
 羊腸 {ようちょう} 遠く 果てしなき
 道をひたぶる 駆けるなり
3.世俗の塵{ちり}に交わりて
 染{し}みひとつだに 付かばこそ
 幾多試練に さらされて
 皺{しわ}ひとつだに寄らばこそ
 迫ることなき悠々の
 わが寮生の 心意気
 若き命を 称{たた}えなむ
4。わが自治寮の 歌の声
 今この丘に 上がる時
 幾山河を 越え行かんむ
 思いの更に燃ゆるなり
 しじまにひとり眺むれば
 我が行く道も いや遠く
 世界の果てに 続くなり

 1955(昭和30)年制定
 ※注釈4

高等部歌(旧中等部歌) 「月のこずえ」

福本禮一 作詞
橋本清司 作曲

1.月のこずえに萌えいでし
 丘は芽ぶきの春の色
 南風{はえ} 吹く道をわが来れば
 桜の花の乱れたり
 ああ、絢爛 {けんらん} の丘の上
 ここに ここに我らあり
2.歩道に茂るアカシヤの
 青葉涼しき夏の色
 都の夕べわが出 {いで}ば
 茜の雲は流れたり
 ああ、団欒{だんらん}の丘の上
 ここに ここに我らあり
3.道の野菊の花盛り
 雑司ケ丘の秋の色
 昼のしじまをわが立てば
 学園の草実を持ちぬ
 ああ、静寂の丘の上
 ここに ここに我らあり
4.枯草の丘野分{のわき}して
 いいぎりに寒き冬の色
 歩みを止めてわが見れば
 富士ケ嶺{ね}雪に輝けり
 ああ、栄光の丘の上
 ここに ここに我らあり
5.遠きふるさと離れ来て
 朝な夕なの留{と}め心{ごころ}
 うつつに甘き香をおいて
 花に寄り行{ゆ}くこおろぎや
 ああ、悠遠のわが望み
 ここに ここに誠あり

 1940(昭和15)年制定
 1999(平成11)年6月 田中禎一採譜・2001(平成13)年3月修正
 ※注釈5

中学部応援歌

山縣久美 作詞
島津祐策 作曲

1.清らの大気いや澄みて
 緑の風もうるわしく
 ここに集いしわれらがティーム
 いざ それ 立ちて戦わん
 いざ それ 強く たくましく
 フレイ フレイ フレイ
2.真昼 {まひる} の大気陽 {ひ} に映えて
 大地の薫 {かおり} 芳 {かんば} しく
 ここに集いしわれらがティーム
 いざ それ 雄々{おお}しく 戦わん
 いざ それ 健児奮{ふる}いたて
 フレイ フレイ フレイ
3.都の大気さわやかに
 日輪{にちりん}燦{さん}と輝けり
 ここに集いしわれらがティーム
 いざ それ 来たれ戦わん
 いざ それ 結ばんわれらが力
 フレイ フレイ フレイ

 1950(昭和25)年5月20日制定
 ※注釈6

高等部応援歌

河辺精孝 作詞
中澤義雄 作曲

1.青雲めぐる関東の
 雑司ヶ丘に幾春秋
 歴史は移る赫々{かっかく} の
 伝統胸に漲 {みなぎ} りつ
 わが国盲の旗風は
 新たなる日を告ぐるなり
2.寒風ふるう冬の朝
 熱砂逆巻 {さかま}く夏の日
 鍛えてなれる丘の上 {え} の
 男児らいまし気負 {きお}えつつ
 わが国盲の旗風は
 世紀の鐘を鳴らすなり
3.坂東太郎寄するとも
 某{ぼう} なにものぞわが雄姿
 玲瓏 {れいろう} 凝 {こ} れる力あり
 衝天 {しょうてん} の意気燃ゆる時
 わが国盲の旗風は
 勝利の歌と響くなり

 1950(昭和25)年5月 20日制定
 ※注釈7

応援歌 「護国の健児」

坂本忠太郎 作詞
丸山林平  補作
富山政男  作曲

1.護国の社 {やしろ} のほとりに高く
 そそり立ちたる我等{われら}が学舎{がくしゃ}
 正義の理想は真紅に燃えて
 集える若人{わかびと}意気天を衝{つ}く
 今こそ覇業はぎょう}に栄は}えある時ぞ
 いざ行け勇士護国の健児
2.芙蓉ケ峰に気は澄み渡り
 帝都の光輝くときに
 公明正大唯{ただ}ー筋を
 進むは我等が尊き使命
 力試さん時こそ来れ
 いざ行け勇士護国の健児

 1933(昭和8)年制定
 1999(平成11)年6月田中禎一採譜
 ※注釈8

注釈

注釈1 筑波大学附属盲学校校歌

 作詞した尾上八郎(おのえ はちろう)は、国文学者で歌人・書家としても名高く、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)などを経て、女子学習院(現・学習院女子大学)教授を努めました。代表的著作の「短歌滅亡私論」は、大正~昭和初期の短歌改革の先駆けになったといわれています。詩の第1連では、石川倉次本案の点字の出現によって独力で知識習得ができるようになった喜びを、第二連ではヘレン・ケラーが心の支えとした日本人、塙保己一の『群書類従』編纂の偉業をたたえ、第三連では鍼を究めて「鍼治学問所による盲人の職業を確立した、杉山和一への感謝と自立への決意をうたっています。作曲に当たった岡野貞一は、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)教授として音楽教育の指導者養成に尽力した一方、文部省編纂の尋常小学唱歌の作曲委員をも努め、多くの楽曲を残しました。よく知られた唱歌には、朧月夜・故郷・春が来た・春の小川・紅葉(もみじ)・桃太郎・夕やけなどがあります。

注釈2 旧東京盲唖学校校歌 「うれしき御世」

 旧東京盲唖学校校歌は、官立東京盲学校となってからも、開校記念日(十二月十二日)の歌として歌われていました。都立文教盲学校の理療科教員であった佐野明憲の証言によりますと、戦時中まで歌われていた、とのことです。作詞は中村秋香によるもので、詩人・歌人としても名高く、『帝国紳士用文』・『落窪物語大成』・『皇国文法』などの著作のある国文学者でした。作曲した小山作之助は、文部省音楽取調所(現「東京芸術大学」)に入学して、東京盲唖学校の初代校長も勤められた伊沢修二に師事し、卒後同大の教授を務めながら作曲家としても唱歌、童謡、軍歌、校歌など幅広く活躍されました。『夏は来ぬ』・『敵は幾万』・『日本海軍』などの作品で知られ、日本音楽教育の母」とも謳われた作曲家でした。

注釈3 東京盲学校寮歌 「雑司ヶ丘の歌」

 作詞した山本常夫は、鍼按科2年生の在学生でした。和歌山盲の出身で卒業後大阪府立盲学校の教諭として赴任しました。作曲した志賀静男は本校小学部の音楽教師で、戦後都立葛飾盲学校校歌などの作曲もしています。当時の職員録には、点字楽譜調査事務とあって、点字の研究が楽譜や数学記号などに発展していく過程を物語ってもいます。

注釈4 東京盲学校第2寮歌 「若き命」

 「若き命」の作詞は、福島県出身の佐藤正彦で、卒業後岩手県立盲学校に奉職されました。作曲した五十嵐光雄は、横浜市立盲学校の教員を退職後、神奈川県藤沢市にほとんど鍼灸マッサージ師しか進路がなかった視覚障害者の雇用の場づくりを目的として社会福祉法人光友会を創設し、現在は約50の事業を展開する大規模な組織の基礎を作りました。

注釈5 高等部歌(旧中等部歌) 「月のこずえ」

 作詞した福本禮一は、柔道のけががもとで片足義足となり、東盲師範部に入学した晴眼者で、卒業後徳島盲学校の校長や徳島県の身障者団体の会長も務めました。作曲した橋本清司は、奈良県出身の当時本校の唱歌(音楽家)の教員でした。戦前は中等部歌としてよく歌われ、東盲の自主独立の「東盲スピリッツ」を象徴する歌だ、と本校の教員で日本点字委員会の会長も務められた阿佐博は語っています。

注釈6 中学部応援歌

 作詞した山縣久美は、本校理療科の教員として生理学などの理療科用教科書の編纂に努め、退職後は学校後援会を支えました。作曲した島津祐策は、後に浜松盲学校の音楽教師として赴任されました。日本盲人会連合・音楽協議会長なども歴任され、邦楽の普及と後継者の育成に尽力された演奏家です。この曲は1950(昭和25)年5月21日に、生徒による作曲コンクール形式で選ばれました。

注釈7 高等部応援歌

 作詞した河辺精孝は、東京帝大を卒後東盲師範部を経て、本校国語の教員として教壇に立たれましたが、在職中にお亡くなりになりました。作曲した中澤義雄は音楽科の生徒で、卒業後出身校の岐阜県立盲学校に奉職された方で、生徒時代は田中禎一とともに、学校行事のピアノ伴奏をよく担当されていました。この曲は1950(昭和25)年5月20日に行われた、生徒によるコンクール形式で選ばれたものです。なお、この歌詞の中で「国盲(こくもう)」とあるのは、当時の母校は「国立盲教育学校」という名称だったからです

注釈8 応援歌「護国の健児」

 作詞したのは、青森県出身の鍼按科3年生の坂本忠太郎で、これに当時国語の教員だった丸山林平が補作しました。作曲したのは、鍼按科卒後も研究科に在籍していた富山政男でした。1980年代までは、スポーツ関係のクラブなどでは必ずと言ってよいほど歌ったもので、通学生も含めると、おそらく校歌に次いで生徒たちに親しまれていた応援歌だといえます。

2023/3/1