筑波大学附属視覚特別支援学校のWEB

卒業生の声

 筑波大学附属視覚特別支援学校鍼灸手技療法科には、生まれつき目が見えない方ばかりでなく、目が見えにくい弱視の方、社会の第一線で働いていながら事故や病気の進行で急激な視力低下に見舞われたり、失明宣告を受けたりした方など、様々な背景を持った方々が入学して来ています。クラスには18歳から40歳代、50歳代と幅広い年齢の方々が机を並べています。本校はそうした方々が就職、転職して職業自立できるよう、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師になる道を提供しています。
 このページでは、「本校卒業生の声」を紹介しています。


Dさん 男性 入学時の年齢:42歳

 私は34才のときに自分が網膜色素変性症であることを知りました。当時仕事も日常生活もそれほど不自由は感じていませんでしたが、徐々に晴眼者との違いを自覚するようになりました。7年後教育相談に訪れ、面接してくださった先生の「国家資格を取得すれば卒業後すぐにでも開業できる!」という言葉に背中を押され鍼灸手技療法科に入学させていただきました。  20年間建設会社に勤めていた私にとって全く分野が違う学習は、覚えたことをすぐに忘れてしまい想像していた以上に大変なことでした。経絡経穴概論と解剖学には特に苦労しました。今でも時々調べ直すことがあります。特に苦労したその2科目は改めて大切さを感じています。
 在学中に、専門科目を熱心にご指導くださった先生方をはじめ、放課後に白杖を使っての歩行訓練や点字をご指導くださった先生、そしてなにより親ほども年が離れた私を仲間として接してくれた同級生たちには、とても感謝しています。
 卒業後はすぐに、開業の準備をしながら、半年間ほど特別に治療室をお借りして研修をさせていただき、地元で開業することができました。早いもので14年が経ちました。微力ながらようやく、地域のみなさんの健康作りのお手伝いができるようになってきたのではないかと思っています。超高齢化社会となりさらに健康作りが重要になっています。そのニーズに少しでも多く応えられるように、今まで以上に地域に密着した治療院として頑張っていきたいです。
 仕事にも少しずつ余裕ができ自分の健康も考えられるようになりました。4年ほど前から、週に1回7キロのウォーキングを続けています。また昨年からは、時々ジムに行って晴眼者に混じりリードクライミングで心地良い汗をかいています。今では完全に視力を失ってしまいましたが、こうして充実した日々を過ごせているのは、鍼灸手技療法科での3年間があったおかげです。
 在校生のみなさん、有意義な学校生活を送ってください!そして、ぜひ卒業後の夢を叶えてください!!

Aさん 女性 入学時の年齢:28歳

 私は、大学院で修士論文を書いている時に、突然、視野の中心がみえなくなる視神経炎と診断されました。徐々に左右の中心暗点が拡大し、視力が低下し、以前のように文字を読めなくなりました。様々な病院での治療を試みるも、視力は回復せず、自分のやりたいことを諦めざるを得ませんでした。しばらくは、自宅にひきこもり、それまで自分が目標としてきたことができなくなった無力感に苛まれていました。 視力に頼らずできる理療の道を志したのは、鍼灸師をしていた親族の紹介でした。盲学校に入り、視力低下によって日常生活で苦労していたことがいろいろと解決しました。まずは、障害者手帳の取得をすすめられました。そのおかげで、福祉サポートを受けられるようになりました。弱視の私が文字を読むことを補助してくれる拡大読書機の存在をはじめて知り、様々なデバイスについて知り得ることができました。残念なことに、病院で治療はできても、ロービジョンにとって必要な情報を全ての眼科で提供しているとは限りません。 附属盲学校では、理療のことばかりでなく、中途で視覚障害を持った方への対応も充分におこなわれており、非常に助かりました。 学校では、先天的に視覚障害がある人、自分と同じように中途で視力低下した人などいろいろな背景を持つ友人たちと出会う機会を持てました。 また、理療の勉強だけでなく、点字の勉強や、視覚障害者と理療の歴史や現在抱えている社会的な問題なども考えるきっかけにかりました。 理療の勉強を通して、手に職をもち、自信をもって社会で働くことへの意欲を強く持つことができました。
 現在は、鍼灸・整骨院で忙しく日々働いております。鍼灸師・あんまマッサージ指圧師として自立して働けるようになり、また附属でのつながりを生かして、治療家として経験を積み、将来は開業できればと奮闘しております。

Bさん 男性 入学時の年齢:26歳

 私は網膜色素変性症という病気です。診断されたのは25歳で、当時の視力は両眼0.3、視野は両眼5度未満でした。大学院では視覚芸術について研究しておりましたので、当時の気持ちとしてはまさに暗闇の中、ひたすら塞ぎ込み、将来を悲観する毎日でした。
 そのようなときにブラインドテニスと出会いました。ブラインドテニスというのは、鈴の入ったスポンジボールをネット越しに打ち合うスポーツで、視覚障害者が楽しめるように工夫されているものです。そこで理療(鍼灸マッサージ)に携わる仲間に出会い、理療という世界に踏み込むこととなりました。私が初めて理療を体験したのはブラインドテニスで筋肉痛になった時のことです。実際に身体に鍼を打っていただき、その治療効果を実感したこと、人を癒す力があることなどを知り、とても興味を持ちました。そこで自身もそのような感動を他人に提供したいと考え、資格を取得するために附属盲学校に入学しました。
 そこでは国や文化は違っても同じ視覚障害を有する仲間達とともに勉強を教え合ったり、悩みを分かち合ったりする中で、本当に有意義な時を過ごすことができました。けれどもその一方で、障害の程度や文化の違い、価値観の不一致から意志伝達の困難さ、未熟さを痛感する日々でもありました。
 そんな経験から私は、悩んでいた頃に出会えた理療師のように、附属盲学校で出会えた理療科教員のように、視覚障害者が自立しQOLを向上させていくことのお手伝いをしたいと思うようになりました。
 今は、筑波大学理療科教員養成施設に進学し、盲学校で視覚障害者に理療を教える教員を目指して学習しています。

Cさん 男性 入学時の年齢:18歳

 私は1歳半のときに網膜芽細胞腫により完全に視力を失いました。幼稚園から高校までずっと盲学校で過ごし、その先の進路を決めようというときに、それまでずっとスポーツをしてきたことで、人の体には興味があり、また、早く自立したいという思い、さらに、手先の感覚を生かした職につきたいという思いから鍼灸の道に進むことを決断しました。
 本校の鍼灸科には、さまざまな人が入学してきます。私のように小さいころから視覚障害を持ち、高校を卒業してすぐに入学する人、一度大学や社会人をへて入学する人、あるいは病気や不慮の事故により後天的に視覚障害者となり入学してくる人など。そのため、当然年齢もさまざまとなります。私のクラスは、最大50歳近くの年齢差がありました。
 私は、年上のクラスメイトの人たちからは、人生の先輩としてさまざまなことを学ばせてもらいました。逆に、障害歴に関しては、後天的に障害を持った人たちからすると私のような人は先輩となるので、障害とどう向き合うか、勉強面や生活面での工夫やアドバイスをすることができました。そうして、お互いに支えあい、助け合い過ごした3年間はとても楽しく、有意義なものとなりました。
 鍼灸科を卒業後、私はヘルスキーパーとして働いています。企業の中で、社員に施術をすることで、自分も社会の一端を担うことができているのだと実感することができています。仕事で疲れ、つらそうに来室してきた社員が、施術後、すっきりした様子で喜んで帰って行く姿をみる度に、この仕事についてよかったと感じます。
 私は、卒業してすぐに念願だった一人暮らしを始めました。全盲の人が一人暮らしをすることは、苦労も少なくありません。しかし、在学中に周りの人たちから話を聞き、具体的にどんな苦労があるのか、その対策はどうすればよいのかを考えていたため、卒業後の生活の不安を減らすことができました。また、自立活動の先生にお願いをすれば、料理や歩行訓練、パソコンの指導などもしてくださるので、自分の目的に合わせて訓練することで、QOLの向上にも繋がると思います。
 勉強はもちろんのこと、卒業後の進路についても丁寧にサポートしてくださった本校の鍼灸科での学生生活は最高の3年間になりました。今後も、多くの人にとっての新たな人生のスタートラインとなることを祈っています。




2024/3/11