1970年11月,本校将来計画委員会は,社会情勢の変化等に対応するため,「将来計画の基本方針」をまとめて筑波大学附属盲学校(以下「附属盲」)の専攻科を3年制短期大学に昇格発展させることを決定した。一方,日本理療科教員連盟(以下「理教連」)は,1971年に実施した全国盲学校高等部在学生へのアンケートの結果(専攻科の短大昇格を望む声76%)を受けて,翌1972年に「理療科3年制短期大学制度確立に関する件」を決議した。以来,附属盲専攻科の昇格を前提として短大構想が検討されることとなり,1978年には,筑波大学内に「筑波大学身体障害者高等教育機関設置調査会」が設置されるに至った。
しかし,議論が進むにつれ本構想は,国際障害者年に係わる国の施策とも重なり,しだいに,当初掲げた「専攻科の発展」「附属盲専攻科の昇格」の理念とは無縁の方向へと質的に転換していった。本校をはじめ多くの盲学校や関係団体は疑問を投げかけ構想の白紙を求めて反対の意向を表明したが,1987年,予定を5年遅らせて,視覚障害部と聴覚障害部を併設した「筑波技術短期大学」(以下「技短」)が開学した。ここに,国立における視覚障害者のための理療師・理学療法士の養成定員は倍増し,生徒数が減少する中,学生の確保等をめぐって附属盲と技短は競合の時代を迎えることとなった。
競合を強いられることとなった本校理療科は,推薦入試制度の導入,留学生の受け入れ,研修課程(専攻科保健理療科)の設置など新しい制度の創設によって,当面は現地での発展を目指しつつも5年後に短期大学,10年後に4年制大学を指向した計画案を,1989年文部省に示してきた。一方,理学療法科は,理学療法科担当教員確保の困難性,理学療法士養成教育の高学歴化などの理由から,1992年以降,「技短との吸収合併を前提とした調査活動」をすすめてきた。
こうした状況にあって1994年5月,技短側から非公式に,3校(附属盲,技短,筑波大学理療科教員養成施設)による新大学構想が提起された。これを受けて附属盲教官会議は、約2年におよぶ議論の末,1996年3月,「附属盲の理療科および理学療法科は,技短の鍼灸学科および理学療法学科と対等な立場に立って,新しい4年制大学の創立を目指す」ことを決定した。
ところで,理療科教育制度に係わる全国盲学校の意識は,概ね理教連の動向から知ることができる。すなわち,前述した1972年の理教連決議,1986年に示された専門部構想などに象徴されるように,全国の理療科は一貫して理療科の高等教育化を指向してきたといってよい。専門部構想そのものは諸情勢から具体化するには至らなかったが,1995年,理教連内に「理療科教育等ビジョン研究協議会」が発足し,理療科の高等教育化の在り方を含めた審議が再開されている。この協議会の報告書は1997年3月に出される予定だが,これを軸に,生徒数減少や障害の多様化,あるいは高齢化社会における医療・保健・福祉分野でのニーズなどをも視野に入れた理療教育の在り方に関する議論が,本格化するものと思われる。
学校教育法上,高等学校の専攻科は,本科3年の教育内容を補完する課程である。この趣旨に照らせば,盲学校専攻科理療科および理学療法科は,普通科教育との連続性を持たない点において,法制度上矛盾しているといわざるを得ない。
後期中等教育の枠組では予算,施設設備面で大きな制約があり,医療に携わる人材養成のための充実した教育・研究活動を行うことが極めて困難である。
あんま・マッサージ・指圧師,はり師,きゅう師及び理学療法士の養成は,盲学校を除きすべて大学,短期大学もしくは専門学校のいずれかで行われており,教育の高度化が進行している。
高等教育機関の卒業者であれば,「学士」「準学士」「専門士」を名乗ることができるが,同等の教育を修めながら,盲学校専攻科の卒業者のみ,後期中等教育ゆえに何等の称号も得ることができない。このことは,視覚障害者の社会的不利を一層増長し,雇用就労をさらに困難にせしめる要因になりかねない。
[1] 東京地区にキャンパスを置く大学であること。主な理由は以下のとおり。
[2] 視覚障害を持つ教職員の労働環境が保障されること。
視覚に障害を持つ教職員が,その能力を十分に発揮し教育・研究に従事するためには,視覚代行機器や人的支援体制が充実した環境が不可欠である。
[3] 視覚障害学生の就学費の軽減措置を図ること。
点字図書の購入等,障害ゆえに負担を強いられる就学費については,学生助成費の増額や育英金制度上の特別措置などの公的補助により,学生の費用負担を軽減する必要がある。
筑波大学附属盲学校は,上記の経過および理念を踏まえ,筑波技術短期大学等関係方面との話し合いを鋭意すすめ,新しい4年制大学の創設をめざす。
(1996/07/08)